引き継ぎたいのは会社であって、勘ではない
事業承継のご相談で最初に出てくる話題は、たいてい株式か税金です。誰に何株渡すのか、贈与と相続のどちらで動くべきか。ところが話を少し進めると、多くの経営者が同じところで言葉に詰まります。「息子さんは今、御社の粗利率を答えられますか」とうかがったときです。
答えられない会社は珍しくありません。原因は後継者の能力ではなく、そもそも社内に「答えられる数字」が存在していないことにあります。試算表は顧問税理士から2〜3か月遅れで届く。原価は先代の頭の中にある感覚値。値決めの根拠は「あの取引先ならこのくらい」という長年の勘。この状態のまま代表印だけを渡しても、後継者は経営判断のしようがありません。
株式の移転そのものは、書類と資金の目処が立てば数か月で終わります。時間がかかるのは経理体制のほうです。数字で経営できる状態をつくるには、5年から10年を見ておく必要があります。
承継を止めるのは「見えない業務」
承継準備で最初に直面するのは、会社の経理が先代または経理担当者1人の頭の中で回っているという事実です。
先代に属人化しているのは、判断の部分です。この取引先には請求を翌月にしてよい、この修繕は資産計上せず費用にしている、この仕入先だけ支払サイトが違う。どれも帳簿を見ただけでは理由がわかりません。長年の関係のなかで決まった運用が、記録されないまま慣習として残っています。
経理担当者に属人化しているのは、手順の部分です。月次の締め作業、給与計算、年末調整、消費税の区分判断。20年勤めたベテランなら間違いなくこなしますが、手順書はどこにもなく、本人も「体で覚えている」と言います。承継のタイミングは、この方が定年を迎える時期と重なることが多いのも厄介な点です。
つまり事業承継とは、社長の代替わりと経理の代替わりが同時に起きる出来事です。片方だけを準備しても、もう片方で止まります。詳しくは「ひとり経理」からの脱却でも触れていますが、属人化の解消は承継の有無にかかわらず必要な備えであり、承継はその期限を明確にしてくれる機会でもあります。
後継者が数字を握るまでの3段階
後継者に「経営数字を見てほしい」と伝えても、いきなり管理会計の資料を渡しても読めません。読めるようになるには順番があります。
第1段階は自計化です。 記帳を外部に任せている間は、数字は「届くもの」であって「わかるもの」にはなりません。自社で仕訳を入力し、勘定科目の意味を担当者が説明できる状態が出発点になります。ここで後継者に経験してもらいたいのは、入力作業そのものではなく、日々の取引がどう帳簿に写るかという対応関係です。取引の実感と数字がつながって初めて、試算表が読める資料に変わります。進め方は自計化とは?中小企業が経理を内製化するメリットと成功の3条件にまとめています。
第2段階は月次決算です。 自計化しても、締めが翌月末では判断に使えません。翌月10営業日以内に数字が固まる状態をつくると、後継者は「先月こう動いた結果、今月の数字がこうなった」という因果を、記憶が新しいうちに体験できます。この繰り返しが経営判断の訓練になります。具体的な組み立て方は早期月次決算の実現をご覧ください。
第3段階は管理会計です。 全社の損益が見えるようになったら、部門別・製品別・得意先別に粒度を細かくしていきます。どの製品が本当に稼いでいるのか、どの取引先が赤字なのか。先代の勘が正しかったのか、それとも思い込みだったのかが、ここで初めて検証できます。承継後に後継者が自分の判断で舵を切るには、この検証を済ませておく必要があります。
順番を飛ばすと定着しません。自計化していない会社に部門別損益を導入しても、入力の粒度が足りず数字が出ないだけです。
買い手も金融機関も、帳簿を見て値段をつける
経理体制の整備は、社内の使い勝手だけの話ではありません。承継の場面では、外部の第三者が帳簿を評価します。
親族内承継であれば、自社株式の評価が問題になります。非上場株式の評価は純資産や利益をもとに計算されるため、帳簿がそのまま税額に跳ね返ります。実態のない売掛金が資産に残っている、何年も動いていない在庫が簿価のままになっている、名義だけの貸付金が残っている。こうした項目を放置したまま評価すると、実力以上の株価がついて、後継者の負担だけが重くなります。
第三者承継やM&Aを選ぶ場合は、買い手による調査(デューデリジェンス)を受けます。ここで確認されるのは、決算書の数字そのものよりも、その数字の裏づけです。売掛金の年齢表は出せるか、在庫は実地棚卸の記録があるか、社長への貸付や個人的な支出が経費に混ざっていないか、簿外の債務や未払残業がないか。裏づけが出てこなければ、買い手はリスクを価格に織り込みます。値引きの理由になるのは不正だけではなく、「確かめられない」という状態そのものです。
いずれの道を選ぶにしても、備えは同じです。実態と帳簿を一致させ、その根拠を書類で示せるようにしておくこと。この作業は思い立ってすぐには終わりません。不良債権や滞留在庫の整理には、損失計上のタイミングという税務上の判断も伴うため、数年かけて計画的に進めるのが現実的です。
5〜10年の整備ロードマップ
承継予定時期から逆算して、やることを並べます。以下は10年計画の例です。5年で進める場合は、1〜2年目と3〜4年目を圧縮し、後半の並走期間は削らないようにしてください。
| 時期 | テーマ | 主な作業 | 後継者の関わり方 |
|---|---|---|---|
| 1〜2年目 | 現状把握と土台づくり | 経理業務の棚卸し、会計ソフトの選定と導入、勘定科目の設計、証憑の電子化 | 経理部門で実務を経験し、取引と仕訳の対応を体で覚える |
| 3〜4年目 | 自計化の定着 | 日次入力ルールの確立、銀行API連携、入金消込フローの整備、経理マニュアルの初版作成 | 月次試算表を自分で読み、疑問点を先代に質問する |
| 5〜6年目 | 月次決算の早期化 | 締めスケジュールの設計、概算計上ルール、チェックリスト整備、翌月10営業日以内の実現 | 月次の報告会に同席し、数字の背景を説明する側に回る |
| 7〜8年目 | 管理会計と実態の是正 | 部門別・製品別損益の導入、不良債権と滞留在庫の整理、役員貸付金の解消、簿外債務の洗い出し | 部門別の数字をもとに、改善策を自分で立案する |
| 9年目 | 内部統制と権限の整理 | 承認ルールと職務分掌の明文化、経理担当者の複数化、決裁権限規程の策定 | 一部の決裁権限を実際に引き受ける |
| 10年目 | 並走と引き渡し | 株価評価の実施、資産承継の実行、金融機関・主要取引先への挨拶 | 代表として月次決算を主催する(先代は同席のみ) |
この表で強調したいのは最終年です。承継の日をゴールにせず、後継者が代表として1年間まわしてみる期間を、先代が見られるうちに確保してください。判断の癖や見落としは、実際に決めさせてみないと表面化しません。
なお、経理マニュアルの整備を3〜4年目に置いているのは、自計化のルールが固まった直後が最も書きやすいからです。運用が安定してから書こうとすると、担当者の頭の中で暗黙化が進んでしまいます。作り方は経理マニュアル整備を参考にしてください。
制度の活用は、体制が整ってからでいい
事業承継には、非上場株式等についての贈与税・相続税の納税猶予制度(いわゆる事業承継税制)や、経営者保証に関するガイドラインといった支援の枠組みがあります。要件を満たせば税負担を大きく繰り延べられる制度もありますが、適用要件や手続き、期限は改正が重なっており、細かい条件をここで断定的に書くことはしません。実際の適用可否は、国税庁および中小企業庁の最新情報で確認したうえで判断してください。
制度の話が先行しがちですが、順番としては経理体制が先です。納税猶予の制度は適用後も継続して報告や要件の維持が求められ、そのすべてが自社の帳簿と申告に基づきます。数字が遅れて出てくる会社、根拠を出せない会社は、制度を使い始めてから苦しくなります。使えるかどうかを検討するより先に、使ったときに耐えられる体制かどうかを見てください。
承継の準備は、今期の経営をよくする
10年計画と聞くと気が重くなるかもしれませんが、ここに並べた作業は、承継がなくてもやったほうがよいものばかりです。自計化で数字が早く出れば今期の判断が変わり、月次決算が締まれば金融機関の評価が上がり、実態の是正が進めば税務調査でも慌てません。承継はその期限を決めてくれるだけです。
そして、始める時期が早いほど選択肢は増えます。承継の1年前に相談をいただいても、帳簿の実態を整えるには時間が足りません。逆に5年あれば、株価が動くタイミングを見ながら移転の方法を選ぶこともできます。
当事務所では、経理業務の棚卸しと現状診断から始め、自計化・月次決算・管理会計の導入、承継時の株価評価まで一貫してご支援しています。「まだ後継者が決まっていない」「何年後になるかわからない」という段階でも構いません。むしろ、その段階で体制づくりに着手した会社ほど、選べる道が残ります。まずはお問い合わせよりご相談ください。直近の決算書と試算表をお持ちいただければ、今の帳簿が承継に耐えるかどうか、その場で見立てをお伝えします。
